「私の不登校体験談」 ケース1 S.M.さん(23歳)

 私は、中学二年生の夏休み明けから不登校になりました。
原因はいじめです。辛くて辛くて、毎日が地獄のようでした。

 夏休み中になやみ相談ダイヤルに電話をして今までのことを話すと、
聞いてくれた方は、よくがんばったね、苦しかったね、もう大丈夫だよと言ってくれて、ほっとして涙が溢れました。
そこで、スクールカウンセラーと担任の先生に相談することをすすめられました。

 学校に行くか休むか、夏休みが終わる直前まで悩みました。
どちらを選んでもいいように、宿題は全部終わらせて学校に行く準備もしていたけど、
私には人権なんてなくて、いじめられてもしょうがなくて、皆より弱くて、ずっとずっと苦しんで生きていかなければいけない、
そんなことを思い知らされる場所に行くのは絶対に嫌でした。
こんなに辛いなら、死んでしまいたい。死にたい死にたい死にたい死にたいと、体中に油性のマジックで書いて、どうやって死ぬか調べていました。

 親は、そんなに辛いなら学校に行く必要はないと言いました。
学校に行かなくなってからも、いつも通りに接してくれました。

 勇気を出してスクールカウンセラーに電話をしました。
夏休み明けから学校にいってないこと、いじめられてたことを、全部話しました。
先生は、この学校でこんなに苦しい思いをしてる子がいたんだと驚いていました。

 それから精神科にも通い始めました。親に精神科をすすめられたとき、
自分がおかしいと言われているようで抵抗があったけど、
少しでも気持ちが軽くなるならと思って、行くことにしました。
先生に今までの事を話すと、神経過敏になってるからうつ病気味ですと言われて、うつ病の薬を処方されます。
その薬を飲むと、幻覚や不快な症状に襲われ、とても苦しかったので、それ以来薬を飲めなくなりました。
そしてその病院はやめて違うところにうつりました。
新しい先生は優しくて良い先生でしたが、
病院が家から遠く、外に出るのが非常に苦痛だったので行かなくなりました。

 中学3年生になり、よく家に来てくれた友達も受験で忙しくなり会えなくなりました。
受験生だから、ちゃんと勉強しなきゃと思っていましたがやる気が出ず、
家ではテレビやパソコンばかりやっていました。
たまに行く中学も、行くまでの道のりが辛く、人とすれ違う時過剰に意識して尋常じゃないほど緊張していました。
自分の顔がとてつもなく気持ち悪くて、見た人が皆自分を変だと思うんじゃないかと恐れていました。

 夏に入り、通信制のS高校の説明会に行きました。
週に5日通学する平日コースと、日曜日だけ通う日曜コースと
パソコンで授業を受けながら、年に20日程学校に行けばいいIT講座があることをしりました。
私はIT講座がある事に興味を持ち、ここなら家から遠いので知ってる人もいないだろうと思ってこの高校に行くことに決めました。

 中3の冬になり、外には出れず、友達と会う事も怖くなり、家に来てくれてもいないふりをしていました。
そして卒業式は、一人で別室でやってもらいました。
今まで関わった先生が全員来て歌を歌ってくれた時、涙が溢れて声を出してボロボロ泣いていました。
自分は気持ち悪くて他の子と違って駄目な子なのに、先生たちは私一人のためにうたってくれてるのが、申し訳ない気持ちと
嬉しい気持ちがごっちゃになっていました。

 4月になり、S高校に入学しましたが、人に会うことが苦痛で入学式も出られませんでした。
その頃は外に一歩も出られなくなっていました。
誰にも会いたくない。自分は気持ち悪い。
もう、一生外に出れないかもしれない、と思っていました。

 家族と話している時は平気でも一人になると、
先の見えない絶望感で頭がおかしくなりそうでした。

 そんな時、親にBクリニックを紹介されました。。
母に、穏やかな先生で無理に薬をすすめたりしないし、予約制で時間通りに診察してくれるから大勢の
患者さんと待つこともないよと言われて、行ってみる事にしました。
外を歩くのが辛いのでタクシーで行ったのですが、運転手さんにも自分の顔を見られたくないのでタオルで顔を隠していました。

 先生は優しく、私の話をじっくり聞いてくれました。自分の顔が変で人に見られるのが辛いと言うと、
「全然変じゃない。あなたがもし街を歩いてて通りすがりの人が、変だーとか、気持ち悪いとか言ったら100万円あげる」と言われて、思わず笑っていました。
先生は最後に、私に宿題を出しました。
それは夜、外に出ること。
「昼間は人の顔がはっきり見えるから辛いけど、夜なら大丈夫じゃない?次に会うまでに挑戦してみて」と言われて、少しなら頑張ってみようと思いました。

 そして夜に家族と家の近くの公園に行きました。昔よく遊んだ木のブランコにのったり、小学校まで歩いたり、遠くの八景島の景色を見て、
親に、「今はどこにも行けないけど、またシーパラにも、ディズニーにも行けるようになるかな」と言うと、
「行けるよ。どこだって行ける。あんたはどこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘だよ」と言われました。
こうして週に一回、先生の所に通うようになりました。

 私が薬は絶対に飲みたくないと言うと、無理にすすめたりせず、少しずつ外に出れるように考えてくれました。
それから、コンビニに行く、友達と遊ぶ、どこか出かける、知らない人に道を聞く、など、毎回課題を出してくれました。
不登校になる前は簡単なことも、どれも辛くて難しかったです。
街を歩いてる人や、店員さんも、いい人がいることに気づきました。

 でも、学校に行くのは夢のまた夢でした。
不安や焦りは常にあって、同い年の人たちは高校に行って色んな経験をしてるのに、
私は学校にも行けなくて家にいてばかりで生きている意味あるのかなと思っていました。

 次の年、お腹が膨らんでいたので近くの内科で診てもらうと、お腹に水がたまっているから
大きい病院で検査をすることになりました。検査の結果卵巣に腫瘍ができていて、手術をすることになります。
手術の結果摘出した腫瘍を調べたら、良性と悪性の真ん中の境界悪性だという事が分かりました。
そして2ヵ月後、またお腹に水がたまり手術をしました。
担当のお医者さんから、すぐに再発したのと、再発するたびに手術をするのは
危険だからと、抗がん剤の投与をすすめられました。
その治療をすると、子供が産めなくなるかもしれないこと、髪が抜けること、さまざまな副作用がでる事を説明されました。

 先生や家族の前では気丈に振舞っていたけど、一人になると、ショックで涙が止まりません。
それから、月に3日間入院して抗がん剤を打って帰るという生活を6ヶ月間やりました。
髪は全部抜けて、体はだるくてしょうがなかったけど、親がかわいいウィッグや帽子をくれたり、
看護師さんや同じ病室の人が優しく接してくれて、前向きに乗り越える事ができました。
そして、最後の抗がん剤を投与している時、こんなに辛い治療を乗り越えたんだから、私、何だってできるんじゃないかと思いました。
同じ病室の人がプレゼントしてくれた雑誌を見て、こんな可愛い格好して遊園地行ったり、友達と遊んだりできるし、
一回も行ってない高校もいけると思いました。

 抗がん剤の投与をしている期間は生ものを食べるのを禁止されていたので、
抗がん剤治療がようやく終わって、まず家族で回転寿司屋に行って大好きなお寿司を食べました。
服も買って、昔よく行ってたみなとみらいの大道芸も見に行きました。

 それから、学校にも行き始めました。
S高校はクラスで授業を受ける形ではなく、取っている科目の教室に自分が行くという大学のような形なので、
授業を受けるメンバーは毎回違うから、気が楽でした。
久しぶりの授業はドキドキしたけど、やっと戻ってこれたんだとうれしかったです。
テスト勉強に追われてアタフタするのも、普通の学生と同じだなと思って幸せでした。

 しかしだんだん学校の勉強が難しくなって、家で一人でやるのは大変だったので、勉強を教えてくれるフリースペースに行き始めます。
学校の先生や校長先生だったスタッフの方が3時間マンツーマンで教えてくれて、使用料は100円でした。
分かりやすく教えてくれるので、悩みの種だったレポートもクリアしていき、行くのが楽しみでした。

 それからBクリニックの先生に、ここの下の階で集まりをやってるからよかったら参加してみない?と言ってもらい、
引きこもりの当事者やその親御さんの集まりにも参加するようになりました。
布を選んでバッグやブックカバーやクッションを作ったり、フリーマーケットに参加したり、先生がお食事会を開いてくれたり、
フリースペースとはまた違う経験ができました。

 こうして週一回学校に行って週2回フリースペースとBクリニックの集まりに行っていたので、
少し前までは考えられないほど外に出ていました。

 でもその分、緊張して気が張っていました。
家に帰ると、「あんな事言っちゃったけど大丈夫だったかな」と心がザワザワして眠れなくなる事が沢山あり、
ささいな事でイライラして親と口を利かなくなったり、急に叫んだり、息苦しくなる日が続きました。

 電車やバスに乗ると息苦しくて途中で降りる事が続いて、それをBクリニックの先生に話すと、
「パニック障害かもしれない。薬を飲むことも考えてみては」と言われました。
そして「今まで薬を飲まないでここまでできてるのは本当に凄い。それはあなた自身の努力だよ。
ただ薬を飲んだほうがもっと楽に過ごせるかもしれないよ」と言ってくれたけど、どうしても薬は飲めませんでした。

 同時に、凄く焦ってた事に気づきました。
外に出れるようになっても、私の心の時計は中2の夏休み明けで止まっていました。同級生と比べて
沢山の楽しい事をどこかに置いてきてしまった気がして、相変わらず自分を責めていました。

 高校は、5年かかりましたが無事卒業できてホっとしました。
通信制の高校は、レポートを提出しなくても、学校に行かなくても、担任の先生に何か言われることはありません。
でも自分で自己管理をしないといけないので卒業率は20パーセント程らしいです。
私も高校に入ったばかりの頃、卒業できるか不安で親に相談すると、「30歳までに卒業できればいいよ」と言ってきて、
こんな暢気な親でいいのかと不安になりましたが、それより10年も早く卒業できたので上出来だと思えました。

 卒業してからは、大学に行くか迷いましたが、やりたいことが見つからなかったので少し考えることにしました。
人ごみが辛く息苦しくなるので、ゆっくりと症状を治してから次のステップに進みたいと思いました。
そして知り合いの人に教えてもらった横浜市がやっている講座に参加して、ヨガや調理実習、
グループワークを通して自分を見つめるいい機会をもらいました。
その講座を卒業すると、カフェでアルバイトの経験ができるのですが、
美味しいパンやスープを出して社会経験を積ませててもらいました。

 その後、知り合いの人がやっているクリニックで、一人辞めるから良かったら働かない?と紹介してもらい働くことになりました。
何も分からなかったので、事務や受付を一から教わりました。
最初は覚えることが多くて大変でしたが、クリニックの先生も上司の人も良い人だったので、
ここで色々な経験をさせてもらえる事は幸せだと思いました。

 素敵な人を見て学んで患者さんに信頼されるスタッフになりたいと思いました。
今は事務と受付を一人でやっていて、時々、やっぱり自分じゃ駄目だと自信をなくして心が折れるときがあります。
上手く説明ができなくて頭が真っ白になったり、色々と悩んで涙が止まらなくなるときがあります。
「もうダメ」と思ったとき、Bクリニックの先生に話を聞いてもらうと、気持ちがスーッと軽くなって
もうちょっと頑張ってみようかなと思えます。

 そして始めてのお給料を貰ったとき、大変だったことが全部報われた気がしました。
同時に親はいつもこんなに大変な事をしてたんだと思いました。
家にお金を入れたとき、今まで苦労をかけてた分、少しは恩返しできたかなと嬉しかったです。

 このお仕事を通じて、世界が広がりました。
今まで私は、このまま生活保護で暮らしていく事になるかもしれないと思っていました。
絶望の中にいて、輝いてる同級生の中で一人だけ取り残されて必死にもがいていました。
今は、やりたい事はやることができると分かりました。
何にでもなれるし、まだ知らない事が沢山あるから、これから学べる楽しさがあるんだと思えました。
まだ人ごみは息苦しくなるし、人前では緊張して上手く話せないし、外出するのは辛いです。
ゆっくりと症状と向き合ってもっと楽に過ごせる日が来るように、マイペースに進んでいきたいと思います。