仕事にぐれた男たちヘ

 

 この社会に増え続けている「社会的ひきこもり」の人たちの相談を受けていると、背後から日本の「男たちが抱え込んでいるきつさと寂しさというものが、じわじわとあぶり出されてくるように感じる。仕事を持ち、家庭を持った男たち、社会的には立派に自立していると思われている男たちが、いつしか妻や子供たちから背を向けられて家族の中で孤立している。「誰のおかげでメシを食えると思っているんだ」。何かあると、そういった殺し文句を振りかざし、家の中ではまるで裸の王様のようにふんぞり返っている男たち。その孤独の闇は深い。

 熱を出して寝込んでいる妻をたたき起こし、深夜に自分の食事を作らせる男。はしゃぐ子供たちに苛立ち「うるさい、黙らせろ」と妻に怒鳴る男。妻の親が病気で倒れても「誰が俺の世話をするんだ」と妻が家を離れることをしぶる男。帰宅するや否や妻や子供たちの見ているテレビのチャンネルを、自分の見たい番組に平然と切り替える男。毎夜アルコールのにおいをぷんぷんさせて帰宅し、玄関先で寝込んで失禁する男。

 こういう生活の果て、いつしか男が家に戻ってくる足音が響くと妻は台所に、子供たちは自分の部屋にそそくさと逃げ込むようになる。男は一人でメシを食い、深夜番組のニュースキャスターを相手に毒づきながら、苦い酒をあおる。こうして働くことと、人生を呪うことしか能のない、幼児のような 男たちが完成していく。男たちは仕事のため、金を稼ぐことのため、成熟の機会を奪われ黙々と働き続ける。男たちは仕事にぐれている。

 男たちは毎朝満員電車に飛び乗り、歯を食いしばって働き続ける。誰のために、何のために。かつてはそこに輝きのようなものを見ていたはずだが、いつしか灰色の日々のノルマをただ消化すること自体が目的になってしまっている。こんなはずじゃなかった。時折そういう悔恨にも似た思いに突き動かされ、出がらしのコーヒーを投げ込まれた胃腸のように、苦しまぎれに蠕動し、もがき、あがく。どこかに出口はないのか。

 もしかすると仕事帰りには、そういう深い孤立を抱え込んだ者同士互いに誘い合って、酒の力を借りながら、その場限りの連帯感に酔いしれることができるかもしれない。どこかにこの孤独を癒してくれるぬくもりはないかと夜の街を彷徨するかもしれない。

 働くことは何かの呪いにも似ている。自らの意思ではなく、より大きなものから不条理にもそういう状況に投げ込まれ、逃げ出したくても逃げ出すことのできない罠に陥ってしまった男たちが、そのきつさを、その窒息感を、周囲の親しき者たちに向けてまるで無差別テロのようにまき散らす。

 やがて定年を迎え、仕事という魂を抜き取られ抜け殻となった男たちが、ゾンビのように家の中で徘徊する。そういう男たちの姿を見てきた子供たちが、この社会に背を向けてぞくぞくとひきこもり始めている。

 人ごとではない。私自身いつしか仕事にぐれる男になってしまった。家族の中で孤立しどこに救いを求めてよいか分からぬまま、ただ日々の生活に追われている。

 不思議なことに不登校の問題では頑として動こうとしなかった父親たちが、ひきこもりの問題になると、重い腰を上げて動き始めるという現象が起きている。それはとりもなおさず、ひきこもりの人たちは父親をも動かす力を持っているということだろう。

 子供がひきこもりになることで、家族はもう一度、互いに向き合うことを迫られる。その結果、家族は解体するかもしれない。あるいは再生するかもしれない。そこから逃げ出さないことで、男たちは深い孤立から回復する最後のチャンスが与えられるように思う。まれにではあるが仕事にぐれていた男たちが、もう一度人間としての表情を取り戻していく神聖な作業に立ち会うことがある。それはひきこもりの家族だけではなく、仕事にぐれた男たちの回復という テーマとして、私たち一人ひとりに現在進行形で突きつけられているものでもあるはずだ。